幾分古い投稿に対していただいたコメントを受けて書きます.特定個人のコメントに対する返答を本文に置くべきでないかもしれませんが,これはあくまでも頂戴したコメントから考えるにいたった私の私的意見の表明です.あしからずご了承ください.
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細かい内容は割愛しますが,私にとって読書というものは小説世界への共鳴を求めた行為ではないとの発言に対して,カクテキさん(非常に参考になる読書ブログをお持ちの方です→乱雑な本棚)にはすごく共感していただいたようで恐縮いたしました.件の発言はあくまで若輩者の私の読書観ですが,今後このブログを読んでいただける少数の方にとって,ひょっとすると何らかの参考,あるいは建設的な批判の根拠になるかと思いますので,きちんと書いておこうと思います.もちろん,文字通り「きちんと」書くには,私の筆力では力不足ですが...
私は共鳴を求めないと書きました.しかし,多くの方が求めているであろう,「共感」「共鳴」のための読書ということが理解できないでもありません.恋愛小説や,ヒューマンドラマを読むときには「自分を主人公に置き換えて」読みが行われるのはごく普通のことだと思うからです.また,すべての読書行為は,物語世界を読者のバックグラウンドと照らし合わせる行為だと換言することもできるかとも思います.これは,言うなれば共鳴を求める行為だと極論してしまうこともできるでしょう.
しかし,小説の世界観を自己の世界観へ投影するだけの行為が読書であるとすれば,読書から得られるものはおそらくほとんど何もないのではないかとも思うのです.読書行為の真に魅力的な一面は,内的な世界観では想像すらできない領域へ足を踏み込める可能性なんじゃないでしょうか.少なくとも私はそれを望んでいます.以上の意味で,私は共鳴を求めないと述べました.自分の興味のベクトルがある.それとは違う方角に進むベクトルでも,熱心に追いかけることに読書の楽しさがあると思っています.
さらに重要な点があります.私は,すべての小説には固有のメッセージがあると信じています.それはテーマと呼んでいいかもしれません.逆に,メッセージを受け取れない作品にはあまり興味をもてません(もちろん,私が未熟で読み取れないだけという可能性も十分にあります).そういったこともあって,私の小説に対する良し悪しの評価基準(評価というほど大げさなものではないですが)は,「強いメッセージ性があるか」「そのメッセージを効果的に表現できているか」「メッセージの器としての物語性は優れているか」「文章表現の技巧が優れているか」といった点に集約されます.ごく大雑把にまとめると,物語は小説家の哲学を運ぶコンテナだと考えています.ですから,私にとっては共感できるかどうかといったことは,あまり重要ではありません.
このあたりで終わりにしたいと思いますが,その前に少し弁解を.誤解していただきたくはないのですが,私は「共感・共鳴を求めて」という類の読みを批判したい訳ではありません.小説はあくまでエンターテインメントの一種ですから,楽しいだけの読みがあってしかるべきだと思います.むしろ,上に述べたような堅い読書ばかりでは,読書の楽しみはほとんど感じられなくなってしまうかもしれません.
ただ,私は,読書の楽しみ方の一つとして,「深読み」をしたい.表面的な物語に感動するだけではなく,作者の意図を知りたい.そこには自分を成長させる何かがあると思うんです.
2 件のコメント:
あわわ、ブログ紹介していただき恐縮です。
私はどちらかというと共感を求める方かもしれないです。
特に犬が登場すると(笑)。
でもそれは本を読むことの一部分であって全てではないです。
この前のくらげさんのコメントを読んで、本を楽しむことの入り口をあらためて思い出せたような気がしたのです。
なんて、理論立てて考えたりはできないんですけど。
理論立てて考える必要なんてないでしょう!僕の長々とした文章は見ようによってはただのへ理屈ですよ(笑)
でも,僕の発言がカクテキさんのお役に立てたなら幸いです
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