2007/09/30

経済学を学ぶということ

経済学を学んでいて,ふと戸惑いを覚えることがある.経済学という学問は,公理と定義から演繹された厳密に数学的な理論体系であると同時に,現実の経済現象を説明するという使命を背負っている.すなわち,学習者の態度として,理論で説明できる部分がどこからどこまでなのかをきちんと把握する必要がある.時としてそれは非常に難しい面がある.特にマクロ経済学ではそれが顕著で,伝統的な古典派経済学,ケインズ経済学を学ぶ段階では惨憺たるものである.新しいマクロ経済学では,まず理論の土台があり,その上に経済学者の思想が取り入れられる体系になっている.先ほど述べたような問題は,原理的に起こりえない.なぜならば,仮定こそ違えどみな共通の言語で自ら構築したモデルについて語ることが出来るからだ.したがって,私のような戸惑いは,現在進行中の経済学教育に潜む問題を示唆しているのではないだろうか.

現在,進行中のマクロ経済学は,実務家の感覚はさておき,ミクロ経済学の一分野であると考えられる.そんな敷衍をするのであれば,はじめからマクロもミクロも経済学としてひとくくりにしてしまえばいいじゃないかと思えるのだが,経済学研究者の感覚はそうではないらしい.マクロとミクロの間には大きな壁がある.

それは,一体どこから来るのか.おそらく,現実世界との関わり方という観点なのだろう.半年程度経済学を勉強してきて,(工学の出身ということもあって)マクロ経済学の考え方にはなじめない部分が多々あった.その原因は何かというと,実証も反証もできないような哲学的な仮定が多くの場合,理論体系に深く根ざしている点だと思う.古典派もケインズ経済学も同じ現象を説明するための学問であるはずなのに,そこには歴然とした経済学観の対立が存在し,学際レベルの闘争があった.現実説明力が高い理論が,理論として美しいわけではなく,理論としては不完全な経済学が時として多くの学者からコンセンサスを得ていた.最近までの日本のケインジアンの優勢がそれを如実に示している.こんなことがあっていいわけがない.あくまで学問として経済学が地位を得ている以上,現実説明能力という観点だけでなく,理論体系の美しさをもっと追求するべきだ.そして,それは時代の流れとともに変わっていくような体系であってはいけない.

そう思いつつも,仕方ないのでくだらないIS-LMなんかも勉強して,最近になってようやく現代マクロ経済学の勉強を始めるだけの基礎体力のようなものができてきたようだ.これまでは,まえがきを読むことすらかなわなかった教科書を苦心しつつも読めるようにはなった.そして,確信を得られた.昔の経済学を学ぶ必要なんてない.古典派とケインジアンの対立も,教養として知っていれば充分で,それについて熱心に学ぶ必要なんてないのだ,と.現在,普及している経済学の教科書はどれもこれも,古臭い経済学だけを扱っている教科書か,古い経済学の批判の上に新しい経済学を展開しているかのどちらかだ.根本的に,新しい経済学を一から学ぶ若者に教育しようという気概が感じられない.前述のような理論的な整合性を求める人間にとって,退屈極まりない古臭い経済学学習によって,多くの学生が経済学から背を向けているということに気がつかないのだろうか?なぜ,簡単な数学を使えば導入できる理論体系を教えないのだろうか?

かくして,私の目標は決まった.現代マクロ経済学は,ミクロ経済学的な最適化行動を取る経済主体の巨視的視点からの観察である.市場全体の動きを把握する上で,現代社会を描写する理論として,これ以上に重要な学問体系は存在しない.それならば,この素晴らしく現実的なこの理論をもっと多くの人々に知ってもらいたい.面白さに共鳴してもらいたい.現代マクロ経済学を学部学生にも教えられるように,教育技法を向上させることが,経済学者に求められている発展ではないだろうか.

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